白ばら新聞
しばらく更新を控えておりましたブログを本日より再開します。
皆様にご心配をおかけし申し訳ありませんでした。これからも生徒第一、スピード重視、オープンな姿勢を大切に、学校運営をしてまいります。

ここに、昭和38年1月19日発行の『白ばら新聞』があります。当時の校長だった漆光の「増改築をおえて」を要約してご紹介します。
・・・考えてみれば中々楽な道ではなかった。5年前に第1期校舎の落成式が行われた際、本校が幸にも戦火を免れたために却って他校に比して校舎整備の点で立ち遅れた点を指摘された方があったが、私もそう感じていた。しかし、本校はこれで良かったと思う。外容の美観は遅れても、数育の場として内容の充実が優先するからである。今誇りをもっていえることは100年の大計を考えながら、同時に現在の生徒の学習に著しく犠牲を強いなかった点である。つまり目標を高く掲げながら現実に目をそらすことは極力避けるように心がけて来たことである。
こうした本校にとっては大事業といえることを、とにもかくにもやり通すことは多くの人々の援助なしでは到底出来るものではない。実は自分の力のみで成し得たと信じていることでも、子細に考えていくと多くの人の援助の御陰がなかったら到底果し得なかったであろうことが解るものだ。理想は高く大きな夢を持つことは結構である。しかし私は目前の現実に対しては如何にさ細なことでも勇気をもって誠実に処理していくことがさらに肝要であると思うのである。人に迷惑をかけつづけながら成功した人もあるかも知れない。しかし私はそのような人を高く評価しない。一見してとるにたらぬように見える日常茶飯事でも私達は大切に誠実に取扱うべきである。
芥川龍之介はその著「侏儒の言葉」の中で「瑣事」と題して次のように述べている。「人生を幸福にするためには、日常の瑣事を愛さなければならぬ……しかし瑣事を愛するものは瑣事のために苦しまなければならぬ」
私達の日常生活を幸福にするためには誠に日々の瑣事を大切にしなければならない。たとえば日々の夕の食卓、これはもはや重大なこととはいえない。しかし、私達の生活を豊かなうるおいのあるものとするためにはこれ程大きな意義を持つものも少ない。同時に、このような日常茶飯の出来事も常に楽しいものとするためには、私達の平生の心がけが如何に大きく関係してくるかは誰しも肯定せざるを得ないであろう。
本校の教育方針に「円満な社会常識の養成」ということが述べてある。常識のある人は人に迷惑をかけない。誰にもこれは自明の理である。しかし常識は常に一定の場所に停滞してはならない。私達は年と共にさらに高度の常識を具えなければならない。故に私達は絶えざる勉強が要請されるのである。かつてあなた方に話したことであるが、文豪森鴎外が「人間生まれながらの顔を持って死ぬのは恥だ。」といったのもつまりは同じことをいっているのではなかろうか。
素晴らしい校舎が出来て私はうれしい。あなた方も同じく喜んでいることであろう。しかし問題はこれからだ。理想はあくまで高く、しかし目前の現実はさ細なことでも大切に、誠実に処理して、そして一歩一歩私達は自己を高めていくように努めなければならない。
このように私は考え、そして本校の生徒諸君は、過去において卒業生諸君がそうであったように、一人残らず良識をもって、そのような方向に邁進されることを切に期待してやまない。

私が子供の頃、今の校舎の土地の中には何軒もの民家がありました。祖父は私の手を引き、一軒一軒訪ねては、土地を譲ってほしいとお願いして回りました。創立100年となった今年、15年の建築期間を経て竣工した校舎を見上げ、あの時、なぜ祖父が私を連れて歩いたのか、わかるような気がします。
私の使命は、みんなの力で100年守ってきた学校を次の100年へと繋いでいくことだと思っています。